「ダンス」のすすめ
4月27日E会開催
2010年2月に鮮烈な印象を残したデレク・シバーズのTEDでの3分間のプレゼン。これが今回のネタ。
遠く広島の路上を歩いていた方を、突然スカイプでディスカッションに参加いただくハプニングも発生。(Bajoさんありがとうございました)ファミレスから普通にフリーディスカッションが成立する。そんな時代に生きていることも再認識。
話は、それぞれのタイプ・・・最初に裸で踊りだすのか?最初のフォロワーになるのか?からスタート。そこを起点に一旦、日本と米国の文化のチャレンジャーに対する評価の違いに話が至る。シバーズの使ったビデオで起こったような現象が果たして日本でも起こり得るんだろうか?ということだ。日本には、むしろ傍観者の立場を選択する人間が多いんではないか?
そもそもシバーズはこの短いプレゼン内で集団行動の中のダイナミックな構造と、そのエッセンスに関して興味深い示唆をしている。一つはリーダーをリーダー足らしめるのは、第二の男(女でもいいです)・・・最初のフォロワーであるという宣言。もう一つは、最初に裸で踊っている男は、フォロワーが来るまでは、ただのバカであり続ける。単なるクレージーだ!というポイント。
せっかく、事前の質問を配っていたのだけれど、ここで方針転換をし(後から整理ですけど)下記の4つのポイントについてディスカッションすることになる。
1)最初のフォロワーとリーダーとの関係
2)バカ(クレージー)の存在について
3)イノベーション、オリジナルの創造⇒コミュニティーの進化・適応に何が有効に働いているか?(日本で)
4)これから起こるであろう変化に対する日本の力
最初のフォロワーとリーダーの関係については、リーダー側から見た場合、最初のフォロワーを同格として遇するかどうか?が集団行動がうまく伝播するしくみを発生させるには重要なポイントになるだろう。あるいは、リーダーと最初のフォロワーは固定的な関係ではなく、扱う事業やイシューごとに立場を交代することがあることがむしろ現実に近いのではないか?または、起点となるリーダーの奇矯な行動・メッセージが「面白い」と感じうることが、フォロワーの動機としては必然的だろう!と言うような意見を交換した。
そこで、「バカ」の存在をみんな改めて思い出した。シバーズいわく「人々はリーダーを過大評価している」・・・確かに・・・でも、最初の起点としてバカの存在が無ければなにも起こらないではないか?荒唐無稽なプランと行動力と最初のチーム。荒唐無稽なプランに私財をつぎ込むバカな投資家。これがアップルを生み、グーグルを生んだアメリカのエンジンじゃないの?と言うわけだ。逆に言うと日本にゃそんな文化が無いんじゃないの?それが残念だ!と思う僕たちが居たんじゃないのか?という話になった。
最近ではホリエモンやグッドウィルの折口氏や村上ファンドに対する社会的リンチ・・・しかも一緒に糾弾するのが「正義」になってしまう風潮ってどうよ?と言う話だ。過去はどうだろう?龍馬はどうだったろう?信長は?秀吉は?田中角栄は?・・・歴史を振り返るときちんと日本にもクレージーは居た。居たし、いまも居るんじゃないの?居るけれど、それをマジョリティーがリアルタイムで承認したり、リスペクトするケースって、いま同様多くはなかったんじゃないか?日本にはクレージーになって成功するというロールモデルの創造に失敗しているんじゃないのか?という議論になった。
その社会的傾向とでもいうものは、どうやって作られ、維持されているのか?・・・まぁ文化なんだろうけれども、どうやってそれを強化し続けているんだろう?・・・ひとつは教育や教養や思い込みの伝播などで構成されているような気がする。あとどこの国でも同じなのかもしれないけれど、評価を下せないものに対して、常に不安を持つ傾向が日本ではどうやら強い。「いまどきの若者」「〇〇というかっ跳んだ経営者」「人相の悪い政治家」「何かと癒着していると想像できる高級官僚」・・・水戸黄門的なステレオタイプ評価をすると安心する、いやむしろ安心したい。という心理をマスコミや多くの人々は意図して、もしくは意図せずに使いまくっているんじゃないのか?
国民という人格は無いのに、毎日今の心境や感情を吐露しているようだし、政府っていう人格はないけれど、毎日何も考えてなかったり、予測し忘れたりしているようだ。ちょっと考えると分かる・・・というかホントは、中の人はそれぞれカラフルだってことは全員分かっている。けれども、安心を作り上げる前提として、概念をパッケージする。日本で見られる風景(おもてっ側)は、そのように出来上がっているんじゃないのか?という話になった。
ここからディスカッションはさらに転調していく。でも、日本がここまで発展できたこと。または今回の災害で見受けられた「リーダー不在のリーダーシップ」現象の数々。これってクレージーを是認するアメリカ的イノベーションを生み出す方法の、対立軸に立つ手法じゃないだろうか?という仮説だ。中国人が「中国人は一人一人は虎だが、集団になると豚になる。日本人は一人一人は小っちゃい虫だが、集団になると龍になる」という言葉を持っているようだが、最初に聞いたときは、いま一つ実感がわかなかった。でも今回の震災での対応や行動を見ていると、頭を叩き潰されても、まったく動じることの無い龍というイメージの実感を得ることができた。・・・わずか1時間で東京の大停電を阻止したのは、だれかが指導したわけではない。いまはそれが正しい、正義の行動だ!とそれぞれが信じて一斉に電気を消して、帰宅したために停電を免れた。
この「龍的社会エンジン」と前述の変化をもたらす対象へのある種のリンチって、同じエンジンで動かしているんじゃないだろうか?クレージーを認め、イノベーションやオリジナルの創造をリスペクトする社会と、一個人のリーダーシップではどうにも動かせない、社会的変化を全体行動で、一挙に成立させてしまう社会。この機能は相互にトレードオフの関係を持っているんじゃないのか?
この仮説に対していくつかの異論が提示された。「いや、この両方の資質は同居できるはずだ」「いまでも実は同居している」という意見だ。これまでも、日本人はこの二つを使い分けてきた。もっとも安定しているときは変化を嫌う傾向が強まり、明治維新や戦後などのある種のピンチにはクレージーが多く輩出される。そんな傾向を思い出した。それでも、どの時代にもそのパワーをこの社会は持っている。いま日本は自信を失い、災害に起因するあらゆる経済的ピンチはこれからさらに拡大するのだろう。
そんな変化に日本は適応を求められる。いまの若者とは、バブル期の時代感覚を共有することは決してないだろう。彼らの眼から見た、彼らの未来は夢の持てない、むしろ先の読める未来だと・・・だから彼らは元気がないのだと「思い込んで」いたのかもしれない。状況はさらに悪化し、緩慢な衰退から、衝撃を伴う衰退の危機を感じざるを得ない状況が近づいた。彼らは、子供たちはどう感じるんだろう?「先の読める希望の無い未来」なのか?「先の読めない希望しかない未来」なのか?我々の共通の見解は「どう考えても、希望しかない未来を抱えて踊るクレージーが出てくるとしか思えない。人間は成長するし、世界はまだまだ広いから・・・」そんな結論に至った。
けど、他人事じゃないんだ!大事なのは僕らがどう踊るんだ?ってこと。龍の魂を持ちながら、どうやって虎(クレージー)の踊りを踊るんだろう?それぞれその宿題を懐にいれての散会となった。個々での踊り、またこのE会を起点とした踊りを今後も考え、共有していきたいと思う。
Let’s Dance!
以上、E会からの”「ダンス」のすすめ”の顛末・・・
超短いスピーチのビデオに対し、ざっくり2時間、密度の高い議論ができるのだな!という成果を得たこと。スカイプなどITインフラを活用しうるということ。場合によっては、画面か、ホワイトボードで図解できる環境があったほうがいいのか?と思ったり、USTでディスカッションダダ漏れでもしようか?の雑談中、ケツダンポトフに関わりのあるメンバーがいることが判明したり、Facebookで松島くんと私渡辺がまんまと釣られる事件など、打ち上げコーナーの方もいつも通り盛り上がりました。

